スパムむすび、ロコモコ、ポケ・ボウル(丼)!ハワイのローカルフードを考えてみると、お米が使われているものが、とても多いですよね。でもハワイの歴史上、ハワイアンの方々の主食は「タロイモ」で、それを蒸し焼きにして皮を取り、水と共につぶしてペースト状にした「ポイ」だったはず…。ハワイでは、いつ頃からお米が食べられるようになったのか、お米はどうやって手に入れていたのか、ハワイにおけるお米の歴史を、ちょっと振り返ってみましょう。
ハワイで稲作⁉ハワイのローカルフードの「ご飯が主食」、その歴史を振り返ると
2024.01.20「ローカルフード」、主食はご飯が主流です。(写真提供:Hawaii Historic Tour LLC)
ハワイアンの主食「タロイモ」はワイキキでも栽培
ホテルやモールなど、建物が立ち並ぶ現代のワイキキ。その街の姿を見ていると、100年前まで農村だったとは、想像もできないかもしれませんね。でも、ワイキキはそれは見事な農村だったのです。
タロイモ畑の様子。水を張った水田で栽培します。(写真:Hawaii State Archives)
1400年代頃には、ワイキキに人々が住んでいたとされていて、山々から流れ来る豊富な真水を使って、主食のタロイモ、サトウキビ、バナナなどが栽培されていました。大きな養魚池も造られていた上に、海に出れば豊富な魚介類が待っている…という環境で、人々の食に関しては、ワイキキはまさに「理想」の場所だったと言えるかもしれません。
中国からの移民がハワイへ
1778年にイギリス人のクック船長一行がハワイを「発見」して以降、外国船がハワイを訪れるようになります。すると、外国からの病気がハワイに上陸し、免疫を持たないハワイアンの人口が急激に減ってしまいました。サトウキビの商業生産が始まり、ハワイアンの人口減少による労働力不足を補うため、外国人移民をプランテーション労働者として迎えることになり、まずは中国からの移民が、1852年以降、数多くハワイに渡りました。
移民船の上でご飯を食べる中国人移民の人々。(写真:Hawaii State Archives)
移民当初は、彼らの食糧として中国から米を輸入していましたが、ハワイの地でも稲作が始まります。ハワイアンの人口急減により、タロの消費量が減ったことで、ワイキキにもあった広大なタロイモ畑は、稲の水田として使われるようになりました。
(写真:Hawaii State Archives)
ダイヤモンドヘッドの横に、稲の水田が広がっていたのです。そして、水田を耕すために…
(写真:Hawaii State Archives)
多くの水牛が働いていました!まるでアジアの農村風景が、ワイキキをはじめ、ハワイ各地で見られたのです。
中国人と日本人、食べていたお米の種類が違った
中国人によって始まったハワイでの稲作は順調に進んでいき、1860年代から1920年代にかけて、カウアイ島とオアフ島で稲作が盛んに行われ、ハワイ産のお米は砂糖に次いで、主要な輸出品となるほどでした。
1885年以降、日本からの移民が多くハワイで生活するようになると(中国人移民の数を大きくしのぐ人数です)、彼らもハワイ産のお米を食べることになりますが、中国人移民が育てていたお米は、日本の短粒種ではなく長粒種。日本人移民たちの口には、合うものではなかったのです。
そこで、ハワイでも短粒種のお米が栽培されましたが、カリフォルニアで大々的に短粒種のお米の栽培が始まったため、そのお米をハワイに輸入することに。そうして、ハワイでの稲作が次第に姿を消し、1960年代には、商業的なお米の生産は終了してしまったようです。
1年を通して温暖で水に恵まれたハワイは、お米の生産に適した地。だからこそ、主な輸出品にも名を連ねていたハワイ産のお米が、生産されなくなったことがとても残念…と思っていたら…
ハワイ大学が研究を開始!
ハワイ大学ヒロ校(ハワイ島)の学生さん方により、ハワイ島東部における農業の多角化についての研究の一環として、お米の栽培についての研究が2019年に始められました。ハワイの土壌で様々なタイプのお米を栽培し、その生育状況や、栽培後の土壌の変化などを研究。日本のお米「コシヒカリ」も研究対象になりました。
新鮮なマグロのポケが乗ったポケ・ボウル(丼)。(写真提供:Hawaii Historic Tour LLC)
日本人移民の食文化と、様々な国の食文化が融合して作られてきたハワイのローカルフード。スパムむすびもロコモコもポケ丼も、お米を主食とする日本人移民や日系人の食文化が色濃く反映された料理です。将来的に、ハワイでお米の生産が行われるようになって…「ハワイ産コシヒカリで食べるポケ丼」、実現するといいですね!